先日(2012/5/17)第3回講座を終えました。
全9回のうち、三分の一を終えたことになります。
毎回その日の講座内容の始めは
前回までの復習時間がとられています。
技のことであったり
事前にいただいていた資料内容であったりと
その日、自分たちの心にひっかかっていたことを
丁寧に紐解きながら学びあうような感覚です。
この講座の開講準備期間中
唯先生とメールのやりとりを何度かしましたが
唯先生はこの「復習時間」を大切にしたいと
何度もおっしゃっていました。
実際、講座を受けていく中で
その時は場の雰囲気や自分自身の興奮状態で
スルーしてしまっていた文章や技の細かいところも
この「復習時間」があるおかげで
改めて自分の中に取り込んでいくことが出来るように思います。
とは言っても、
技などは一回講座を受けたからといって
いざという時にすぐ使えるかというと…
なかなか難しいと思うので、やはり、
講座リピーターになって何度も体験しながら
自分のモノにしていくしかないんだなぁ‥と気づきました。
第3回の講座の始まりもいつものように
前回までの復習時間からでした。
私は資料の中に出てきた
「ジェンダーバイアス」という言葉の意味がわからず
唯先生に質問したのです。
二つの性別の違い。
身体的な特徴。
女性は女性として認識する育てられ方をされても
女性としての好みやこだわり方には幅があること。
この幅の部分を「ジェンダー」として
生まれてから今までに受ける
社会的影響の大きい認識とされるようです。
それに加えて「バイアス」というのは
「〇〇すべきである」というような
偏見や偏りがかかりやすいものとされ
これら二つをあわせた言葉が
「ジェンダーバイアス」として表現されるようでした。
(唯先生、
私はちゃんと理解できているでしょうか(^-^;
誤りがある部分がありましたら後でお知らせください。
訂正させていただきます。)
確かに自らを省みても思い当たるところがあります。
生きてきた経験や育てられ方が
自分の考え方の尺度になっていますが
私には私の生きてきた道があるように
人には人の生きてきた道があることを忘れがちで
同じ尺度で物事を見ると誤解を生じたり
事実がゆがんでしまったりしやすいということでしょうか。
資料の中の一文に
「自分で考えて自分で決める力」とありました。
この一文から、そう言えば…と連想したのは
「人間は考える葦である」という言葉。
なるほど。
ちょっと Wen-Do から飛び火してしまったようにも思いますが
なんとなく、自分の中で繋がる部分もあり興味深く感じました。
今朝は各地で金環日食のライブ中継が行われ
宇宙の悠久な営みに一瞬触れたことも
今の想いに何らかの影響を与えたのかもしれません。
あと残すは6回。
しっかりと心に刻みながら充実した時間を過ごしたいと思います。
全9回のうち、三分の一を終えたことになります。
毎回その日の講座内容の始めは
前回までの復習時間がとられています。
技のことであったり
事前にいただいていた資料内容であったりと
その日、自分たちの心にひっかかっていたことを
丁寧に紐解きながら学びあうような感覚です。
この講座の開講準備期間中
唯先生とメールのやりとりを何度かしましたが
唯先生はこの「復習時間」を大切にしたいと
何度もおっしゃっていました。
実際、講座を受けていく中で
その時は場の雰囲気や自分自身の興奮状態で
スルーしてしまっていた文章や技の細かいところも
この「復習時間」があるおかげで
改めて自分の中に取り込んでいくことが出来るように思います。
とは言っても、
技などは一回講座を受けたからといって
いざという時にすぐ使えるかというと…
なかなか難しいと思うので、やはり、
講座リピーターになって何度も体験しながら
自分のモノにしていくしかないんだなぁ‥と気づきました。
第3回の講座の始まりもいつものように
前回までの復習時間からでした。
私は資料の中に出てきた
「ジェンダーバイアス」という言葉の意味がわからず
唯先生に質問したのです。
二つの性別の違い。
身体的な特徴。
女性は女性として認識する育てられ方をされても
女性としての好みやこだわり方には幅があること。
この幅の部分を「ジェンダー」として
生まれてから今までに受ける
社会的影響の大きい認識とされるようです。
それに加えて「バイアス」というのは
「〇〇すべきである」というような
偏見や偏りがかかりやすいものとされ
これら二つをあわせた言葉が
「ジェンダーバイアス」として表現されるようでした。
(唯先生、
私はちゃんと理解できているでしょうか(^-^;
誤りがある部分がありましたら後でお知らせください。
訂正させていただきます。)
確かに自らを省みても思い当たるところがあります。
生きてきた経験や育てられ方が
自分の考え方の尺度になっていますが
私には私の生きてきた道があるように
人には人の生きてきた道があることを忘れがちで
同じ尺度で物事を見ると誤解を生じたり
事実がゆがんでしまったりしやすいということでしょうか。
資料の中の一文に
「自分で考えて自分で決める力」とありました。
この一文から、そう言えば…と連想したのは
「人間は考える葦である」という言葉。
なるほど。
ちょっと Wen-Do から飛び火してしまったようにも思いますが
なんとなく、自分の中で繋がる部分もあり興味深く感じました。
今朝は各地で金環日食のライブ中継が行われ
宇宙の悠久な営みに一瞬触れたことも
今の想いに何らかの影響を与えたのかもしれません。
あと残すは6回。
しっかりと心に刻みながら充実した時間を過ごしたいと思います。